特に投資家にとっては・・・

先日、投資家交流会なるものに出席したのですが、その時に私はある株価チャートを持って行きました。ふだんはそのような資料は持っていかないのですが、最近研究した指標であったため、どのような反応があるか聞いてみたいという気持ちからであった。その資料は分析指数と日経平均を連動したチャートです。出席者にそのチャートを見せました。

その反応は明らかに二分されました。「ふん、ふん」と言ってあまり関心を示さない人と食い入るほど見ている人に分かれるのを感じました。その後も反応を観察してみました。

関心を示さない人は、きっとファンダメンタル派なのではないかと思ったり、まだ初心者なのではないかと思ったりしました。一方、非常に関心を示した人から質問された。「この分析指標のところは売りとなっているが、私だったらここでは売らない」と。指標で売りになっているところは「だまし」のところであり、その後、チャートでは上昇となっている。

その上昇を見て「私だったらここでは売らない」と言ったのか、本当に本人が「ここでは売らない」と思ったかは定かではないが、私は返事に困った。「投資家にもいろいろな考えがあり、また手法も異なるので、自分の信じた手法で判断すればよいのではないでしょうか」という返事にとどめた。

交流会の最後のころに私に質問した人に私から質問してみた。「あなたは投資キャリアはどのくらいですか、また、トータル成績はいかがですか」と。その人曰く、「投資キャリアは7年ほどで、最初に大きく負けてしまったので、これを何とか取り戻そうと必死になってやっているのです。トータルではまだ負けています。」という返事か返ってきた。

私は、トータルで負けているということは、その手法なり考え方が間違っているのではないかと思っています。このことは以前から当欄で述べています。「儲からないことは何かが間違っている」と・・・。

交流会や投資家の集まりに出席すると必ずと言っていいほどワンマンショーになる。一人が喋りまくる。自分の考えや投資手法、さらには今後の見通しなどを確信的に喋る。たしかに投資家はパソコン相手の孤独な仕事であるため、ストレスがたまるため、そのような会合でストレス発散のため喋りまくる気持ちはわかる。しかし、周りの空気も読んでほしい。

上記の内容から、なぜこのような会合に出席するのかという疑問もわいてくるだろう。出席してもあまり意味はないだろう・・・と。私もひとりの投資家であり、毎日パソコンの前で黙々と売買したり、開発の仕事をしていると、人との交流がまったくなくなってしまいます。私は、今までの体験から「独りで考え悩むほど、その答えは曲がる」と考えています。それを矯正するのは人との交流です。

よって、人との交流は必要なものなのです。特に投資家にとっては・・・。私も投資キャリアは長いのですが、投資家の会合などでは思いがけないヒントを貰うこともあります。だから、いそいそと出かけていくのです。
拙者の格言

『饒舌は信用に値しない。饒舌は自分の「非」を無意識に隠す行為である。知る者は言わず、言う者は知らず。巧言は徳を乱る』

『人間、ひとりでは生きていけない。ひとりでは幸せになれない。人は人とのつながりの中で生きていく。晩年は人との交わりが幸となる。人とのつながりは財産』

『ひとりで考え悩むほど、正しい解決方法から遠ざかり、そして曲がる。考えすぎると、人間は臆病になる。しかし、人間は努力している限り悩むものでもある。悩み、迷ったら原点に戻れ』

お金と健康の話

投資家は投資手法の違いはあっても市場で収益を上げようという目的には変わりない。投資はゼロサム・ゲームと言われるものの、多くの投資家の収益はゼロどころか大きくマイナスとなっている。なぜでしょうか。

たとえば、株価が上向きの移動平均線の上に出れば買い、株価が下向きの移動平均線の下に出れば空売りをする。それぞれ株価が移動平均線の反対側になったら決済するという売買であれば、少なくとも大損はしないであろう。市場では売りと買いしかないわけですから、あまり難しく考える必要もないような気もするのですが。

上記で「市場で収益を上げようという目的」と記述しましたが、はたして投資で収益を上げることが最終目的なのでしょうか。たとえ市場から収益を上げて目的を達成できたとしても、お金は使わなければ何の価値もありません。お金は使ってはじめて価値が出て満足感を得られるのではないでしょうか。それとも、お金を眺めて満足感に浸りますか・・・。

このように、お金は我々に贅沢感や満足感を与えてくれます。しかし、お金は贅沢感や満足感を与えてくれて何でも買うことができますますが、お金では買えないものがあるのも事実です。お金で買えないもの、それは「幸福」「教養」「品格」などではないだろうか。

「幸福」とは感ずるものであり、この幸福感はなかなかお金では買えないものです。ある雑誌に面白い記事がありました。「収入が高い夫婦ほど仲が悪い、貧しい家庭ほど夫婦の結束が固い」という内容でした。人間は収入が高くなるほど自己主張が強くなるという。そのため高収入の夫婦間ではお互いに自己主張が強くなり、うまくいかないということだろうか。

貧しい家庭では、夫婦が努力していかなければ生活が成り立たないため結束することになるのだろうか。幸福感は、それぞれ個人の価値観によるものであるため一概に何ともいえないところです。しかし、確かなところは、投資での収益努力は最終目的ではなく、幸せになるための手段であると捉えることが正しいのではないだろうか。

話題を変えて、近年、高齢化社会となり健康に関心をもつ者が多い。健康で長生きしたいと考えるのは、ごく自然なことであろう。そのため最近では健康思考が高まっている。巷では、いろいろな健康法やサプリメントの広告が溢れている。

無理なダイエット、苦手な早起き、過激な運動、それって本当に正しいのだろうかと考えたことがあるだろうか。マスメディアに翻弄されているだけではないだろうか。本末転倒にならない為にも・・・。

健康に関心をもつ人の目的は「健康で長生きしたい」との一点に尽きる。あまり健康に関心をもたない私には、これらの発言に違和感を持ちます。健康で長生きしたいのは万人の希望であることは分かる。しかし、そこに何かが足りないような気がする。

健康で長生きして何をしたいかである。そこの「何をしたいか」が欠落しているような気がする。多くの健康オタクは、健康でいたいということが目的となっている。もし、今、健康であるならば、すでに目的は達成できているのではないだろうか。

やはり健康は目的ではなく、本来の目的は「健康で何をするか」ではないだろうか。つまり、健康は手段であり、その先に目標や夢があるのではないだろうか。

一般に、大事なものは何かと尋ねると、多くの人は「第一に健康、第二にお金」と答えるでしょう。その大事なものをこのあたりでもう一度見つめ直して考えるべきではないでしょうか。それともそんなことは大きなお世話なのでしょうか・・・。

投資においても健康においても、現在考えている目的は手段でしかなく、本来の目的は別のことろにあることを自覚しておくべきではないでしょうか。
拙者の格言

『お金は目的ではなく手段である。お金はユーティリティー・ツール(便利な道具)』

『誰でも長生きしたいと願う。しかし、長生きして何をするかの目的意識を持つ者は少ない。健康は最終的な目的ではなく、健康は豊かな人生を送るための手段である。夢や目的を持って行動することにより健康で長生きできる。ただ、長寿と幸福がすべてイコールとは言えない』

逆張りと順張りとの捉え方

市場が高値を更新してくると、長期投資家の話題が中心になってくる。長期に持ち続け、今ではこれだけの資産になっているとか自信たっぷりである。相場の世界は「勝てば官軍」ではあるが、相場には上昇期、下降期があり、長期投資派は相場下降期にはつらい思いもしたであろう。

たまたま現在の相場環境で見れば「長期投資で良かった」となるが、長い目で見ればゼロサム・ゲームではないだろうか。現在、長期投資派が脚光を浴びているが、相場低迷期に長期投資派の記事を見ることはない。

私は長期投資が問題であるとは言っていない。長期投資でも短期売買でも、投資家の資金量や投資家の性格に合っていれば、それがその投資家においてのベストの投資手法であると思っています。

投資手法には上記のように、長期投資と短期売買がある。FXにはスキャルピンという一瞬で売買する超短期売買もある。いずれにしても投資家に合った手法で売買すればよい。また、実際の売買手法には、逆張り手法と順張り手法とがある。こちらも投資家に合った手法で売買するべきでしょう。

ここで少し逆張りと順張りについて考えて見ましょう。たとえば、逆張りにおいて買い下がりをしたとします。株価1000円から100円刻みで3回買い下がれば900円、800円、700円となる。一方、順張りでも買い上がりをしたとします。株価1000円から100円刻みで3回買い上がれば1100円、1200円、1300円となる。

ここで、買い下がりと買い上がりを3回行った時点の損益を考えて見ましょう。買い下がりの平均買いコストとは800円「(900+800+700)÷3」となる。一方、買い上がりの平均買いコストは1200円「(1100+1200+1300)÷3」となる。

ここで、買い下がりを3回行った時点の株価700円での損益はマイナス100円「700-平均買いコスト800」となる。一方、買い上がりを3回行った時点での株価は1300円での損益はプラス100円「1300-平均買いコスト1200円」となる。

これは何を意味するのだろうか。買い下がりと買い上がりでは総投資額は異なるものの、買い下がりでそのまま株価が下がり続けると何回買い下がりをしても評価はマイナスのままである。他方、買い上がりでそのまま株価が上がり続けると何回買い上がりしても評価はプラスのままである。

実際、株価は上がり続けることもないし、下げ続けることはないので、上記の考えは当てはまらないかもしれませんが、逆張りと順張りとの捉え方を一考する余地はありそうな気がしますが、いかがでしょうか。

多彩な投資手法

私は時々、相場とは何ぞやと考える時があります。しかし、今でも明確な答えが出てきません。常々申し上げていますが、相場の世界は答えのない世界であり、歓喜と絶望、それにストレスの世界でもあります。

このような世界では、正しいという答えがないのだから何を言っても罰せられることはない。相場上昇となって○○円になると強気の予想して、たとえ、それが外れたとしても大して責められない。つまり、答えがないのだから何でもアリと言うことなのだろうか。投資の世界とはそのような世界なのだろうか。

ある株式セミナーの責任者が「今まで何百人もの講師を呼んでセミナーを行ったが、本物の講師は一割にも満たないなあ」と言っていた。では、そのほかの講師のセミナーを受けた受講生はどうなるのだろうか。そこに責任はないのだろうか。私が考えるに、分かっていない講師の話をもっと分からない受講生が聞いているのだから文句も出ないのだろう・・・。まったくナンセンスな話しだ。

書店に並ぶ投資雑誌においても同様であろう。相場が動意づいてくると、売らんがためにカリスマ投資家を仕立てて記事を書く。出版社と投資家の間には利益は相関しない。このことは理解しておくべきである。

私も今まであらゆる投資雑誌を読んできた。しかし、最近はこの手の本は一冊も購入していない。ある程度、投資の本質を理解してくると、これらの投資雑誌は、ほとんどいい加減なことが分かる。投資雑誌は投資家を「簡単に儲かりますよ。こんなに儲けている人がいますよ」と投資家を煽るだけです。出版社は本が売れさえすれば良いのです。そこに投資家に対する責任がないのです。

しかし、私が今まで読んだ中で一番印象に残っている本があります。それは「あなたも株のプロになれる―成功した男の驚くべき売買記録」(立花義正著)である。本物はこの一冊ぐらいでしょう。

著者である立花氏がさんざん苦労して学んだ売買手法が記載されています。この本には売買譜も記載されていますが、私が何度読んでも建玉の入れるタイミング、建玉をはずすタイミングは分かりません。彼独自の判断ではあると思いますが、その根拠は分かりません。もちろん、そのあたりのノウハウは公開できないないのは分かりますが・・・。

文章の中に、押し目買いについて記載されています。「高値から二本目の陰線から買い下がる・・・」などと書いてあるので、これは酒田五法の押し目買いの手法であると想像できます。また、買い下がりの建玉も2-3-5などと、建玉数に変化を付けての買い下がりです。このあたりは酒田五法の手法を自分なりにアレンジしたものではないかと想像します。さらに、彼は「パイオニア」一銘柄のみの売買です。

彼の手法を全体から見ると「つなぎ売買」であることが分かります。「つなぎ売買」は投資手法の最高峰と言われています。売買譜より内容を詳細に見ると「これだけ利益が上がったから利食いする。これだけ損をしたから損切りす。」という概念はないように見受けられます。ひたすら建玉の操作だけです。いかに有利に建玉を入れるかに専念しているようです。これらの点は、一般投資家との視点の違いが分かります。

利食いも損切りも考えない建玉の操作だけの売買。皆さんは理解できますか。このように世の中には多彩な投資手法があることを理解しておくべきでしょう。長年投資活動をしていても儲からないと嘆いている投資家は、このあたりで投資の視点を変えることも必要ではないでしょうか。
拙者の格言

『現在の苦境を嘆く。それは過去の最良の時と比較しているからである。だからいつも不満を言う、愚痴をこぼす。視点を変えろ。最良のときはこれからくる。』

累進資本課税

以前話題となっていたのが、トマ・ピケティ氏の著書「21世紀の資本」である。この本に最も頻繁に登場するキーワードは「格差」である。同氏は「行き過ぎた不平等」をいかに改善するかを語っている。

ピケティ氏は「重要なのは、格差の大きさそのものではなく、格差が正当化されるかということなのだと言う。つまり所得格差、資産格差、教育格差など様々な「格差」は、単なる所得や資産、教育における「差異」ではなく、行き過ぎれば是正されるべき「不平等」であり、それが生じる背景や要因を知ることが重要としているのだ。

そして、同氏は資本主義が内包する「格差」を拡大するメカニズムを政策的にコントロールすることが必要であり、具体策としては、高い透明性を兼ね備えた国際協調に基づくグローバルな「累進資本課税」を提唱している。

また、この本の重要なメッセージのひとつは、経済格差が政策決定の政治的不平等を引き起こし、民主主義の脅威にならないかという点である。そして経済格差が拡大しているという事実に対し、経済の専門家だけに任せるのではなく、多くの市民が主体的に議論に参加することの重要性を指摘している。

「格差」という言葉は広範な読者層を惹きつけたようだ。ピケティ氏のねらいは、長期にわたる膨大な経済データを示し、議論のプラットフォームを提供することだったのではないだろうか。そこで論ずるテーマは、経済書の範疇にとどまらず、格差という視点からの21世紀の社会国家の将来像というひとつの社会思想史にみえるのではないだろうか。

ここで彼の言っている経済の格差、つまり所得格差について考えてみよう。この格差について彼は「行き過ぎた不平等」をいかに改善するかについて語っている。彼は資本主義が内包する「格差」を拡大するメカニズムを政策的にコントロールすることが必要であり、具体策としては、高い透明性を兼ね備えた国際協調に基づくグローバルな「累進資本課税」を提唱している。

私もこの考えには賛成するが「累進資本課税」には問題もあるだろう。なぜなら、我々社会人は経済活動として、その根底に多くの収入を得たいと考えるとはごく自然なことであろう。ほかの人より多く稼ぎたい、上に行きたいと考えるのは人間としての本能であろう。

本能とは善悪を超越した人間に備わっている生存競争の中から生まれてきた必要不可欠なものである。そこで、元来、人間に備わっている本能に逆らったシステムはいずれ問題が生ずることになる。

もし、企業において、せっかく稼いだ儲けを高い税金に持っていかれることは辛いことであろう。そこで企業は考えた。本社を租税回避地(タックス・ヘイヴン)とも呼ばれる、法人税などを払わなくてよいカリブ海にある英国領ケイマン諸島に移転してはどうかと・・・。

また、個人においても、いかに税金を少なくするかと苦慮するであろう。いずれにしても、稼いだ金をできるだけ取られないようにしたいと考える。これらは人間の本能を逆なでするために起こる拒絶反応である。

昔の話であるが、ある野球選手がプロ球団に入団するときの契約金について、記者から「たくさんの契約金を頂いたでしょうね」と質問されたときの返答を今でも思い出す。その選手は「たくさん頂いたという印象はないですね。だって90%も税金でもっていかれてしまうのですから」と。今ではそのようなことはありませんが、当時、高額所得の累進課税が90%であったとは・・・。

税金について、多くの納税者は「税金を納める」というところを「税金を取られた」と表現する。これらの表現は「不本意ながら」という気持ちが内在している。つまり、本能を逆なでされたという気持ちの現れである。

このように「累進資本課税」には多くの問題をはらんでいます。低所得者は累進課税に大賛成。高所得者は累進課税に大反対という構図が見えてきます。お互いに自分勝手な言い分である。しかし、累進課税は、いくらたくさん稼いでも、その多くは税金で持っていかれてしまうという「労働意欲の減退」を引き起こす可能性だってある。

以上のように、近年は資本主義の行き詰まりが見えてきた。つまりピケティ氏の言う「格差社会」の顕著化である。「格差社会」は社会の歪みをもたらす。これらを解決する方法はないのだろうか。「累進資本課税」だけで問題は解決しないであろう。

以前、私が当欄で解説したことがありますが、これらの問題を解決する方法は、「富」の循環であると考えます。富が一極集中となるから問題が起こるのです。これを解決するために「累進資本課税」を導入しろと提言しているのであろうが、上記で述べたように、行き過ぎた「累進資本課税」は人間の本能を逆なでし、拒絶反応を引き起こす。では・・・。

多くの富を所有した者は、税制ではなく自発的に社会に還元するべきであろう。これを成し遂げるにはやはり「教育」が必要である。小さいときから「社会還元」について教育することが資本主義、民主主義が継続するカギとなるでしょう。

人間の本能を満足させ、さらには施す(与える)ことの喜びを味わうには、やはり、自発的な「社会還元」が良いのではないかと思います。そのように考えるのは私だけでしょうか・・・。

マイクロソフトのビル・ゲイツは自己資産の半分を社会に還元すると言っています。
拙者の格言

『人間の究極の喜びとは、施す(人の為に行動する)ことである。そして、人を育てることにある』

『人間の価値は、どれだけ稼いだかではなく、どれだけ与えたかで決まる』

『万象は流転し循環することにより調和し、それらが継続されることにより秩序が保たれる。本来あるべき正しい世の中、正しい人間の姿は、自然界の生物の秩序のあり方に、その答えを見出すことができる。生物はすべて共生するものである』